タイ人「小野田少尉は『英雄』と呼ぶにふさわしい」

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反応
Malacañang Palace, Public domain, via Wikimedia Commons

小野田少尉の半生がタイのサイトで紹介され、彼を称賛するコメントがたくさん寄せられていました。タイにも彼のような兵隊がいればいいのに、と語り合うタイ人の反応をまとめました。

新着記事(翻訳)

小野田少尉 – 大日本帝国軍のTHE LAST SAMURAI

上海の商事会社で働いていた1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入校。卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、陸軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校としての教育修了後、退校命令を受領する(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。

訳注:お盆期間中は約10年前の記事(すでに削除済み)の再掲載しています。記事はwikipediaから原文で紹介されていたのとほぼ同じ内容の部分を引用しています。

「戦争」に関する海外の反応

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1944年12月、遊撃戦指導の任務を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)。

日米開戦後日本軍の占領下におかれたフィリピンのルバング島に1944年12月31日着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約一個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都のマニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

日本敗戦後

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦法により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。

また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えた。

また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。

二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。

三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。

出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/小野田寛郎

新着記事(NEWS)

タイ人の反応

心に一本芯が通ってるね。

僕は貴方のような日本人の武士の血統を心から尊敬します。いったい、どれだけの人間が貴方のように行動できるでしょう?

栄誉を受けるにふさしわしい行動だよ。本当に。

日本政府は戦争が終わったことを伝えるため、ずっと情報を送り続けたんだ。もう戻ってきても大丈夫だよ、ってね。でも、彼は決して信じなかった(凄い)

この任務を誇りに思ってるんだろうね。

確か、映画になってたよね。名前を思い出せないけど…

小野田中尉、スゴーイ。

*0* !

『英雄』という言葉は貴方のような兵士にこそふさわしい。

素晴らしい母国に対する献身だよ。タイの兵士たちにも、これを読ませたいね。

素晴らしいし、本当に優れた兵士だよ。いまのタイにもこんな兵士がいるさ、きっとね。

彼の心は本当に強いね。

サムライ道だ。

正直、最初にページを開いた時は30年もムダに過ごした話なんだろうと思って笑ったんだ。でも、読んですぐに彼の国を愛する心に気付かされた。そして、とても深い感銘を受けたんだ。この精神の半分でもタイにあれば、少なからず国が良くなるはずだよね。

武士道だね

そうだよ、しかも最上級のね。ほんとに同意するよ。もし、僕らにもっと国を愛する心があれば、役人の賄賂もなくなるのにね。

彼が事実を知った時に、ハラキリをしてしまわなくて、ほんと良かったよね。

日本人は規律正しいよ。学校に遅れることすら、彼らは国の恥だと考える。
日本は本当にとても尊敬できる。偉大な国だよ。

涙が出てきたよ。本当に彼を尊敬するよ。

日本人は本当に自分の国に忠実だよね。(そして、日本人同士で尊敬し合っている。)僕らも彼らを模範にすべきだよね? 日本人はたいてい、働くときもまるで自分がオーナーの会社で働くみたいに、誠心誠意死ぬ気で働く。僕は個人的にこの国の人達が凄く好きだよ。もちろん、自分の国の次に、だけど。
過去に裏切って日本に痛みを負わせた国はどこの国だい?

タイでしょ。その時、タイが恥ずかしげもなく「自分たちは日本の側じゃない」って言ったんだ。
もし、僕が日本ならもう二度とそんな国とは親友として付きあおうとは思わないだろうね。でも、日本はいまでも関係を続けてくれている。本当に尊敬できる精神だよ。

日本の兵隊の価値観は本当に尊敬できる。

腐敗したタイの警察と比較したら…

読んだら鳥肌が立った。彼は本当の英雄だね。

これが本当の兵士だよ。尊敬します。

こういった規律正しさが日本を今日のように繁栄させた要因のひとつだよね。

記事を読んで、最後の写真を見た瞬間、涙が滲んだよ。
ゆるぎなく兵士として身を立てた30年…日本という国の国民は本当に物凄く自分の国を愛してるんだよ。

The Last Samurai แห่งกองทัพพระจักรพรรดิญี่ปุ่น

コメント

  1. 現地ルバング島では彼のような強い男に育ってくれとの願いを込めて息子にオノダとかヒロオと名付ける人が多いそうな

  2. そういや
    現地で健康診断したときに日本人の看護師(医者?)に
    「ハイセイコーって強いねえ」
    って言って驚かせたとか
    当時の新聞に載ってたなあ
    競馬中継を聞いてたのか

  3. ただただ彼の信念がすごいし、それくらい強い信念で動かなければいけなかった時代の悲しさも感じて、切ない物語だなあ。

  4. 陸自のレンジャー課程でも同様の活動が出来る様に教育されてる

  5. ‍♂️お辞儀

  6. 真に最高の愛国者へ、最大限の敬意を。

  7. 農作業をしてた現地人相手に無双してた我が国屈指の英雄や